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FMICS-SD 2006(平成18)年6月15日

『近代日本の大学人に見る世界認識』
四章 自然体の伝道者 青嵐永田秀次郎

主題 永田秀次郎「世界は人間の為に造られたるものではない」の意味

池田 憲彦

永田の略歴

 永田秀次郎といっても現在は知る人は少ない。内務官僚として警保局長をしているから、権力の中枢にいた経験を有している。旧制の三高を出てから高等文官と司法試験に合格しているので、大学に進学していない。この一点を見ても尋常でない能力(記憶力と集中力)の持主である。だが出世欲はその軌跡から見ると、最初からない。東京市長にも就任した。 

■ 問題の所在

@ 治安維持法の背景にある思想の国家管理に対して、批判的である。それは後藤内相の下で警保局長をしていた際の、寺内首相の憤慨への「報道の自由」を守る対処に見られる。その遠因は熊本県警察部長在任時における大逆事件への憤りがあるやに推察される。

 因みに永田の新聞による寺内批判への放置に対し、結果的に容認した寺内の統治感覚もいい。すでに思想表現の自由を前提にした近代議会政治があったことを示しているからだ。

A 共産主義の浸透を「スペイン風邪」として把握した感性に見る絶妙な均衡感覚。

 こうした感覚による見識が必ずしも当時の選良の共有していなかったところに、昭和戦前の限界と悲劇があった。それは、孫文の連ソ容共路線による中ソ同盟ができている状況で、後藤が推進しようとした革命ロシアとの連携による沿海洲の開発構想が俎上にも載らずに消えた経緯に見られる。永田は後藤の対ソ関係改善への意欲は肯定しつつ、選良の合意を得るところにまでいかないと認識していた。その程度が見えすぎていたのであろう。

B 永田の思想性の骨格は、本メモの主題に要約されている。この一節は、短文エッセイの「俳句的人世観」にある。こうした感性こそ、日本思想の原形質が近代欧米思想を凌駕していた面である。永田のそれは例外ではなく、よく学んだ日本人は自覚していた。後藤もその一人である。近代派は、それに気づいていない。特に戦後教育を受けた世代には。

■ 暫定的なまとめ/1920年代、ロシア革命以後の思想相克への対応

 永田が学長をしていた期間は、後藤逝去を受けてからだ。昭和4(1929)年5月から病死した昭和18(1943)年9月まで14年間の長きに亘った。文部省が学生課を設置して本格的に高等教育機関への共産主義思想の浸透に取り組み始めた頃である。最初に官立大学の学長、次いで私学の学長が文部大臣の要請で集まり、対策について鶴首した際に、文部次官の要望から陛下に奏上している。そのくせ、年に数回しか来校しなかった。

 これはあくまで想像だが、永田の存在は、その後の思想統制にかなりの抑制をもたらしたのではないか。欧米各国政府の対応に関する情報収集によって、コミンテルンの革命工作を内務省特高部はよく知る立場にあったものの、先達である永田の均衡感覚を無視できなかったと思われる。もし永田がいなかったら、その統制の行き過ぎによる犠牲は、さらに多くなったと想像できる。だが、そうした彼の役割の記録は残されていない。こうした筆者の推察は、文部省の思想管理行政への拓殖大学の対応からも、容易にわかる。